2009年9月

父の思い出

「ロードトゥバーディション( Road to Perdition 地獄への道)」を観ました。で、観たら泣いた。子への父の「思い」を感じました。
ちょうど18年前バブルの再絶頂に父の相続がありました。ゴルフ会員権の評価額は7000万円でした。その分の相続税を3000万円くらい支払ったと思います。現在の売値は600万円です。すぐ売れば良かった?売りませんでした。そのゴルフ場を父が愛していたことを知っていたからです。
株式をしこたま持っていました。これはとある証券会社の投資顧問会社に一任運用させていました。現金化すれば良かった?しませんでした。その証券会社は祖父が創立した会社でした。父の兄の息子、私のいとこが経営者でした。彼と父との間に心の通い合いがありました。深い「思い」がありました。だから「解約」しなかったのです。FPとしては「ばかな運用」をしました。でも後悔していません。父の思いの方がより大切でした。
 私の父は昭和40年に輸入アクセサリーの商社を創立しました。高度成長の途上、日本の女性は自分を着飾る余裕はありませんでした。そんな頃に「日本の女性を美しくしたい」という思いで起業したのです。
 彼のガンが見つかったとき、私はメーカーに就職して壁にぶつかっていたのでした。「仕事をするって、何だろう。俺はどうしたらいいんだろう?」と思いながら街を歩いていました。百貨店がありました。とても小規模な百貨店です。ふらっと立寄りました。ガラスケースを覗いて私は驚きました。「親父がいる!」
ガラスケースの中に並んでいたアクセサリーに私は父の生き様を見たのです。父が選んだブランド。父が必死で口説き、交渉し、選んだアイテム。それがそこにありました。「仕事を通した自己実現」の見事な結晶でした。父が死んでも、それは生き続ける・・そして、私自身も父の作品でした。帰り道、頬を伝う涙を拭いながら「ぼくもこんな風に仕事をしたい!」「仕事を通して自分を表現したい!」、そう決意しました。26歳でした。
 今、マネーコンサルティングを行っています。私にはミッション(使命)があります。
日本人の「自分とお金の関係性」を変えたい!
それが私の「世直し」です。
・オンリーワンの生き方を追求していただく。
・自分自身の思い、夢を実現するための経済的裏付けを確保する。
・家族を守る。家族への思いを伝える。これを援助する。
このために私は存在します。私の「思い」です。

不動産所有から日本史を見直す

日本の歴史は土地私有を巡る歴史として見直すことができる。

大和朝廷時代:公地公民法(646)、班田収受法
奈良時代 : 三世一身法(723)、墾田永年私財法(743)
平安時代 : 荘園制度
鎌倉時代 : 荘園を守る武士が独立していく。王朝に接していた平家は軍事的に弱体化。
室町時代 : 武士が王朝化。幕府は朱印船貿易で自ら儲けることに集中、全国の統制は放棄

政府が全国をあまねく統治できるようになるまでは、力の強い農民が土地を開墾したり、弱い者から奪ったりして私有地を増やした。「土地は天皇のもので、天皇から借りて耕す」という大宝律令の建前は無視され、色々な法律が現実に後追いしていった。

豊臣秀吉が諸国を統一し、初めて強力な支配が全国に及ぶようになった。太閤検地により荘園制度が終了。農民はそれで良かったが、功臣への恩賞として土地を与え続けることが秀吉ガバナンスの源泉だった。九州平定後は恩賞地を求めて朝鮮にまで攻め込み、結果的に政権の弱体化を招いた。これを反面教師とした徳川政権は、国替えを頻繁に行ない、諸侯の妻子を江戸住まいとして人質にし、些細な非をとがめてお家お取りつぶしをすることで支配を安定化した。この非常に整然と支配された270年間、士(藩から割り当てられた家)農(先祖代々の土地、しかし多くは小作農)工商(賃貸家屋)というような住まい方だったと思われる。

日本人の持ち家信仰というのは神代の昔からという議論があるが、それは生産手段としての土地への執着である。日本人のアイデンティティが稲作だった時代はその通りであったろう。

日本の農地は1961年(昭和36年)の609万ha(ヘクタール=0.01平方km)をピークに減少を続け、2005年には469万haとなった。しかも、そのうち39万haが耕作放棄地である。農家戸数は1950年の618万戸をピークとして2005年には285万戸。そして、農業人口に到っては、1960年の1454万人から2007年には312万人に減ってしまった。

でも、現在の日本人で稲作にひもづけられた土地へのイメージをアイデンティティとして持っている人はどのくらいいるのだろうか? というか、どのくらい残っているのだろうか?

持ち家好きな日本人

日本人が持ち家好きなのは、日本人の固有の気質に基づくものとは言えない。江戸時代の江戸の町人は賃貸住宅に住んでいた。武士は藩から与えられた住宅に住んでいた。自分で金を稼いで購入したものではない。農民は大家族で粗末な家に居住していた。耕作する土地は庄屋から借りて小作しているのである。

「俺も家を買って一国一城の主になった」などと戦国大名のようなことを言うのは立身出世主義がスタートした明治期以降である。封建時代には全くなかった感覚である。

それでも、戦前の勤労者の持ち家比率は1割に届いていなかった。

戦後核家族化が進み、小規模の住居で生活が可能になったこと、団地、そして昭和40年代からマンションが始まって住宅の高層化が進み、土地利用率が高まったこと、経済高度成長によって家計収入が高まったことによって持ち家率が高まった。

何よりも影響が強かったのは政府の景気政策である。

住宅を買えば、木材、セメント、鉄、アルミ、プラスティック、塗料など多くの業界が潤うことになる。プレハブなど、それほど高い技術がなくても建てられるようになり、雇用吸収力も高い。

また、保守・安全主義の日本人は一般に借金を嫌うが、住宅ローンだけはなぜか特別扱いするようになった。

政府は、持ち家支援が「豊かさを実感できて民心が穏やかになる(←当時は安保闘争や学生運動など血の気が多かった)」こと、さまざまな業界を活性化して所得倍増、経済成長に役立つことから、昭和41年より「住宅建設五箇年計画」(第1次1966年-第8次2005年)を始めた。これが住宅生活の指針で、この法律には公営・公庫・公団住宅の建設戸数目標などが位置づけられていた。

1割に満たなかった勤労世帯の持ち家比率は5割に高まり、9割だった賃貸世帯は3割に減少した。人口の拡大と核家族化の進展も同時だったので、建てられた住宅数は非常に大きな数となる。昭和10年に1350万世帯で、持ち家は130万戸程度だったのが、昭和35年には1960万世帯のうち持ち家が1270万戸となった。(昭和38年労働白書)

終身雇用や年功序列賃金によって会社を辞めない限りローン返済に不安がないと感じた日本人は、持ち家志向を強め、それは持ち家信仰にまで高まった。これは戦後のマーケッティングに常に狙い撃ちされてきた洗脳されやすい団塊世代にとって極めて根強いものとなり、その感覚・信仰が子世代にも引き継がれてしまっている。つまり、「持ち家じゃないと肩身が狭い」とか「借家住まいだと信用が低い」という論理の裏づけのない固定観念に呪縛されている。

また、住宅は人生における最大の買い物なので、「失敗を認めたくない心理」が強く働く。「家を買うべきではなかった」と正直に認めたくないために持ち家の良さ・すばらしさを過剰に意識し、語ろうとする。論理を超越した「感覚」で抑え込むのである。

持ち家意識の歴史

日本人は明治時代に「都市生活者」というものを生み始めた。身分が固定されていた封建制度が崩れたことで立身出世主義も生まれた。ただし、東京で邸宅を建てられるのは薩長藩閥でなければ無理で、大部分は借家住まいだった。
日露戦争後は財閥の力が強くなり、三菱・三井の経営者とその一族郎党(関西では住友・鴻池)が豪壮な邸宅を建てるようになる。渋谷・新宿より西側地域の宅地開発も始まった。

戦後、東京・大阪の大都市圏は空襲により大きな被害を受け、少しずつ都市設計がなされていく。地方は農地改革によって小作人が地主となった。「この土地は自分のものだ」という大きな喜びを感じたことだろう。ただし、工業化に伴う経済成長の果実を地方・農家に流し込む田中角栄の諸政策(食管制度、道路特定財源など)が機能するまでは貧しく、農村の中卒者は「就職列車」に乗って集団就職していった。

核家族化が戦後進展していく。それは、農業から重化学工業への労働力のシフトだった。江戸時代~大正次代までの都市生活者以外のライフスタイルは、大家族がちょっと大きめの家に3世代が住み、農業には家族総出で取り組む。子育ても老親介護もファミリー内で行うというものだった。そこには家父長制の下で家に縛り付けられた女性たちの犠牲があった。

昭和40年代には経済高度成長を国民誰もが実感するようになった。都市郊外圏に団地やニュータウンが続々と建設された。「マンション」という名の建物も多く建設され、持ち家率は急上昇していく。昭和45年からは減反政策が始まり、農業から工業に転じて豊かになっていくという流れが当たり前になった。

昭和50年代までのサラリーマンは、「定年後は帰省して百姓やるんだ」と思っている人も多かった。故郷の山や川がアイデンティティで、「故郷に錦を飾る」という言葉がまだ存在していた。しかし、「兎追いし彼の山。小鮒釣りし彼の川」という郷愁やノスタルジーを減反政策の現実が襲う。故郷に帰ってもそこで農業には戻れないのである。また、田中角栄の目指した「地方への重点公共投資」は建設省国土省の霞ヶ関官僚が作った企画どおりの工事がなされていき、地方は均質化。地方圏の自然破壊も顕著になり都市に馴れた人を呼び戻す魅力を欠くようになっていった。

購入した自宅が「終(つい)の棲家」という意味を持つようになる。これが持ち家への執着を強化することになった。

日本人の多くが家を所有するようになって50年ほどしかたっていない。なのに、多くの人は、「昔から日本人は持ち家を求めていた」と言う。それは錯覚なのだ。

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