内需・外需・官需 その2

日本は慢性的に内需不足で外需と官需に頼らざるを得ないことを述べました。

今までの官需というのは、「公共事業」です。すなわち、空港、ダム、道路、建物など。土建です。そして、自然破壊です。

経済が東京圏に高度に集約されてきました。大阪は戦後まで、「日本第二の都心」だったのですが、今や「最大の地方」となりました。極端に言えば、日本には「東京」と「地方」しかないのです。地方の経済活動における公共事業の比率が高まってしまいました。

ここで、小泉政権や民主党政権が公共事業を抑制しようとすると、地方経済の多くはたちまち失速します。民主党は土建を抑制し、人々への直接所得注入を行う政策です。私は個人的に賛成です。

日本の公共事業は土建であり、自然破壊なのです。なんか嫌な感じですね。

でも、アメリカよりはまだマシかも知れません。

というのも、アメリカの公共事業はまさに「戦争」なんですから・・ すなわち、「破壊」と「殺人」です。戦争をしなくなったらアメリカ経済はもたないのです。

全世界のどこにでも軍隊を展開し、空爆します。輸出する商品は、「民主主義」。相手が嫌がれば嫌がるほど燃えます。ベルリンの壁が崩壊して20周年。イデオロギー対立がなくなったので、民主主義の輸出先はイスラム社会や独裁政権、テロリストを支援する国家となりました。それらを「悪の枢軸」「テロ国家」と名付けて最新兵器を雨あられと降らします。

そのための費用を実は日本が米国債を買い続ける(外貨準備として)ことで、結果的にファイナンスしてしまっています。戦争の費用のある程度の部分を日本が支払っているのです。

「うまくやられてるな」と思う方も多いかも知れませんが、そうとも言い切れません。

なぜなら、日本の好景気はアメリカが大規模戦争を行っているときに起きています。
・ 朝鮮戦争 : 戦後復興
・ ベトナム戦争 : 高度経済成長
・ 湾岸戦争 : バブル景気
・ イラク戦争 : 平成景気
日本は結果的にアメリカの戦争の間接的恩恵で豊かさを享受してきたのです。

平和憲法やら非核三原則やらは、実質的に意味があるのか無いのか・・・良くわかりません。そんな図式を見ている人から見れば「チャンチャラおかしい」と映るでしょう。

さて、オバマ大統領は核廃絶を高らかに宣言しました。多くの先進国もそれに協力することを直ちに表明しました。「はだしのゲン」の中沢啓治さんなどの日本の反核運動家は拍手喝采しました。

でも、これは核保有新参者たちへ、通常兵器による戦争の宣戦布告ではないでしょうか。

核廃絶をも戦争の理由にしてしまうのです。アメリカって恐ろしい国ですね。冷戦という「核を持つことによる平和」の時代から、「核を持たせまいとの戦争」の時代に既に移行していたのです。ブッシュが国連を軽視・無視していたことで歴史に大きな汚点を残したことからオバマは大いに学習し、「国連を味方に付け、国連を利用した戦争」という新しいコンセプトを打ち出したのですね。

ノルウェー政府は、ただちにオバマ大統領にノーベル平和賞を授けました。これは、すごい「くせ球」を投げたのではないでしょうか。ノーベル平和賞を受賞したとたんに戦争をしかけることは、歴史上の汚名を極端に気にするバラク=オバマ氏にとって抵抗がありましょうから。

ただ、CIAを活用してテロが起きたように見せかけるぐらいのことは簡単にやれることですから、ノーベル平和賞が決定的な抑止力にはならないのでしょうね。

日本もアメリカも矛盾がいっぱいなんです。もちろん、中国も。ヨーロッパも。

内需・外需・官需

2009年11月時点で、民主党政権による事業仕分けが進行しています。ばっさり切られた事業もたくさんあります。「今までその事業によって仕事を得ていた会社は大丈夫かな」と心配になります。全体で3兆円カットするなら、3兆円近くの法人売上高が「消えてしまう」ことになります。

すると、法人は仕入れや支出を絞ることになりますから、失業率が悪化したり、さらに売上高が上がったりすることになります。

「そんなことを言っていたら、財政規律は保てず、いつまでたっても国債残高が減らない。」

という意見があります。これもまた正しいと思います。これをどのように解決すれば良いのでしょうか? 実は誰にもわからないのです。

人々が仕事をすると商品を供給する力が増えます。それに伴って需要があれば売上と利益が生じます。供給者はハッピーになります。もちろん需要家(お客さん)もハッピーになるからこそ、その商品を購入しているはずです。供給者も需要家もハッピー。従業員も給料が増えてハッピー。政府も税収が増えてハッピーとなります。「需要>供給」で物価が上昇していく状況を「インフレ」と言います。インフレだと、めでたしめでたしなのです。

しかし、需要が減るとどうなるでしょうか。供給者は売上高が下がり、利益も大幅に減ります。するとその従業員もボーナスを減らされたり、賃下げさせられたり、首を切られたり・・とアンハッピーになります。収入が減ると、その人は商品を買えなくなりますから、さらに需要が減るのです。「需要<供給」で物価が下がっていく状況を「デフレ」と言います。政府も税収が減ってアンハッピー。デフレではみんなアンハッピーとなるのです。

日本人は基本的には無駄遣いをしません。まじめですから仕事をがんばって供給力は常に増えます。基本的には需要不足の社会です。

昭和23年から60年くらいは、輸出によって需要不足を満たすことができました。特に米国が世界中の商品を買いまくったのです。怒濤のように輸出をして、国内はハッピーハッピーでした。高度成長時代、安定成長時代でした。

土地バブル、株式バブルが平成元年末をピークにして崩壊しました。大きな需給ギャップが生まれました。小渕総理を筆頭に、日本の政府は赤字国債を大量に発行して、政府の公共投資によって需給ギャップを埋め、失業率の高まりを抑えてきました。

その後、中国沿海部の人たちが旺盛な消費意欲を示して、少しは持ち直してきました。

基本的に日本経済は、
・ 国内需要不足 (国民消費が不足)
・ 外需依存
・ 官需依存
なのです。そして、さらに、
・ 人口が減少
・ 消費意欲の低い高齢者の増加
・ 生活のために必要な家電は充分行き渡ってしまった
・ 携帯電話やゲームで消費者の欲望が満たされてしまい、ブームになるような新商品が出にくくなった
・ 企業が収益を確保するために賃金を下げ、派遣社員を安い賃金で酷使
・ ワーキングプアと呼ばれる若年低所得層は消費をリードするパワーなし
・ 昔から今まで消費の主役は団塊世代。この世代が60代になり、消費が減った(最も消費するのは40代半ば)
・ 介護は新ビジネスだが、顧客層である後期高齢者には支払い能力が乏しく、「おいしいビジネス」となり得ない
ということから、絶望的に慢性内需不足に拍車がかかっていきます。国内は基本的にデフレ傾向なのです。

ですから、2008年のリーマンショック、AIGショックのような国際的な金融危機で外需が減少すると非常に大きな影響が出てしまう経済構造なのです。

散るという飛翔の形

「金持ち父さん貧乏父さん」の著者ロバート=キヨサキが講演した後、質問した人がいた。

「では、一般的な投資家はどのようにすれば良いのですか?」

ロバートは答えた。「まず、一般的であることを止めなさい」と。

私たちは凄い量のメディア情報を浴びて生きています。でも、その情報は正しいのでしょうか?

メディアリテラシーという言葉があります。メディアの情報に対して、どのように「つきあう」のか。このことについて、述べます。

・情報には「事実」と「意見」がある
・情報の提供者は意図を持っている
・情報の提供者は最大多数の「耳ざわりの良い」情報を発信する
・コメンテーターは、訴訟リスクの少ない相手を攻撃する

ということですね。これって、当たり前の話です。
メディアの情報、「新聞に書かれたから」「本になっているから」「偉い先生が言っているから」、「その情報が正しい」ということは一切ないのですね。あと、「NASAが開発したから→良い」とも限らないのですね。

世の中に「一般ピープル」なるものが存在するとしたら、
A)「一般ピープル」はどのように、その情報を受け止めるだろうか?
B)「一般ピープルでない自分」は、どのようにその情報を受け止めればよいか?

という二つの質問を自分自身に投げかけてみてほしいのです。

A)を研究しないと、例えば株式投資はうまくいかないことでしょう。「株式投資は美人投票である」というケインズの明言があります。自分がその人を美人であると思うかどうかは無関係で、「多くの人が美人と思う」銘柄に投票しなければ儲かりません。

また、マスマーケティング(テレビCMを打って消費者に売るような販売)に携わっている人とか選挙参謀も、A)へのたゆまない研究が必要になります。

日本人は「変な人」「変わった人」とみなされると生き辛くなり、極端には絶望します。小学校から職場、老人ホームまで、「変な人」が排斥され、時にいじめの対象になります。多くの人は、「変な人と言われないように」多くのエネルギーを使います。

「顔黒」のような奇抜なファッションも、その少女が属しているコミュニティにおいては顔黒がスタンダードであって、そのコミュニティで「美白」を主張するといじめられてしまう、なんてことが起きたりしているかもしれません。

ところが私はちょっと変わった父に育てられました。私の父は子供時代から言われのない差別を受けていじめられ、海外への憧れを強く持つようになりました。その気持ちが学徒動員で徴用され、武器弾薬もないのに拘束されて、ひたすら上官に殴られるという体験から日本社会への憎悪にまで発展し、子供の私に対しても、「日本人としての普通」になるな、という教育をしました。ですから、私には「変な人と言われることへの抵抗感」が育たず、自分のユニークさを守るように生きてきました。小学校から現在に至るまで度重なるいじめに遭ってきたのは、日本社会に生きるための一種の納税のように受け止めてもいます。そんな私は、上記のB)の問いかけを常に行ってきました。

今は大人になったので、A)とB)の両方の見地から眺めるようになっています。

これから、いくつかのケースに対してA)ではない見方を示します。これは残念ながら、ある人には不快感や怒りを招く可能性があります。ちょっとリスクを取って読んでくださいね。また、「事実」と「意見」を区別してみてください。

銀行と日銀

橋下府知事が選ばれた大阪府において、某銀行(郵政公社トップの出身行)が強烈な貸し剥がしを行っているとのこと。(これはあくまで噂であり検証できません。また、私はそのことを悪いこととも思っていません。)

橋下府知事ががんばればがんばるほど公共工事が抑制され、地元の中小土建業者が倒産していくので、銀行として早めに貸付金を回収しておこうというものです。元本保証の約束で人々のお金を預かっている立場としては、当然のことでしょう。

問題は貸し剥がしをするからもっと(たくさんの/早くに)倒産が起き、法人及び個人の納税額も減りますから府財政はますます悪化するというデフレスパイラルですね。

銀行は預かった預金額に応じて日本銀行から借入れを行って、預金額の50~90%程度を貸付に回します。この比率を預貸率と言います。貸し付けると、その会社の、そして住宅ローンであればハウスメーカーの預金口座にお金が入る。預金額が増えるので、その銀行はその「増加分×預貸率」分だけ貸付を増やすことができることになります。

銀行は預金額に応じて貸付を増やそうとします。銀行員たちには強烈な貸付ノルマが課されます。借りる必要の無い会社にまで、「借りてくれ」と言って回ることになります。これが、「晴れの日に傘を差し出す」という銀行のふるまいです。

相手の信用でお金を貸し、そのことで預金額が増えていくという効果を「信用創造」と言います。消費者金融からお金を借りる場合には、借りた金額だけ消費者金融会社の銀行預金残高が減少するのでトータルの預金残高は差し引きゼロですから、この効果は日本銀行に当座口座を持つ銀行限定の現象です。

景気が良くなると、企業は将来の販売増を期待して在庫を積み増ししたり、設備投資したりしようと借入れを増やします。すると、銀行トータルで見ると預金残高は「貸付分-お札の流通金額の増加分」だけ増えるのです。

世間に流通する通貨量を増えるとインフレになります。それを防ぐために日本銀行は公定歩合(日銀から銀行への貸付金利)を上げたり、短期資本市場からお金を吸い上げたりしてインフレ防止に努めるという大事な働きをします。

日本銀行の金融調節が強く働いたり、あるいは景気が悪くなったりすると、逆回転が起きます。預金額が減り、貸付が抑制されます。さらには、貸付金の回収ノルマが銀行員に課されます。これが、「雨が降ったら傘を取り上げる」という銀行のふるまいです。そして、このことでさらに景気が悪くなっていくのです。

銀行員は、晴れの日に傘を渡して雨が降ったらそれを取り上げることに罪悪感を持ったら行内で生きていけません。目の前のノルマを淡々とこなすしかありません。

新銀行東京は、銀行のこのようなふるまいを嫌気して、異なるコンセプトで作られた銀行です。この稿を書いた3月12日は新日銀総裁と新銀行東京が大問題になっています。

学校に行く目的(4)

英語の graduation は「学位を与える」ことに焦点が当たっている。卒業という漢語。業を卒する。業をしまふ。卒業時点では既に過去に焦点が当たっている。

私が最も好きなのは commencement という言葉。commence とは「始める」の意。新たなる旅立ち。卒業後に焦点が当たっている。これ好きなんです。結婚披露宴に行くと、「ゴールイン」と言われる。いつも違和感がある。結婚生活はこれから始まる。数十年の結婚生活に比べたら、ケーキに入刀するとか披露宴のアレンジを行うなんて些細なことでしかないじゃないですか。
 
資格好き、ブランド好きな日本人ですが、それって「思考停止」に役立つんです。これって重要ポイントです。

脳って、その機能を節約するために思考停止したがるんですね。観念、ビリーフもそうです。さまざまなことを全部白紙から判断していったら間に合わないし疲れるので、過去の体験とか親の言葉からビリーフシステムを構成する。ビリーフシステムが自動的に反応してものごとを処理していく。

日本人は大学に入ると勉強しなくなると言われる。私もその一人です。(ただ、他の大学に行った人はもっと勉強していないことを知った。)ブランドによる思考停止なのです。ブランドを獲得しても将来何の保証もないのに、あるように思ってしまう。そして、思考が停止する。「学校に入れば安心だ」というのは親の思考停止です。学費を払って安心するとか。これも親の思考停止。そして、親が思考停止すると子供は当然のように思考停止します。

私の講座で自分の意思で学校に行く人がいます。驚くべきことに自分の意思で将来のために通うくせに親に行かされたのと同様の思考停止を起こすことがある。入学するだけで、授業料を払っただけで安心し、思考を停止する。おいおい。

学校に行く、特に社会人にとって重要な目的は、

4)そこで色々な人と出会う
ことじゃないですか。

その資格を持って仕事をしている人に会える。それは先生だったり、事務所スタッフだったり卒業生だったりします。彼らから話を聞く。その仕事をして、どんな喜びがありますか、何がしんどいですか、後悔していませんか、将来どんな発展がありますか、その仕事を始めるためにどんな準備をしましたか、こんな私はその仕事をできそうですか・・・など。すばらしい情報が手に入る。その大いなるチャンスを生かさない手はないと思います。だけど、とほほ・・・ 卒業するまでそんな作業を行っていない人が結構いるのです。これって想像力の欠如? 思考停止のたまもの?

はっきり言って、スクールに行って入学手続きを行うまでに、そのスタッフ、講師、卒業生を紹介してもらい、聞きまくれば、そのスクールに行くことが必要ないことがわかる場合も多いのですよ。授業料とか節約できます。

学校に行く目的(3)

これも私の体験ですが、私は認定ファイナンシャルプランナー(CFP)資格を持っています。しかし、CFP取得前からファイナンシャルプランナー(FP)としての仕事をやっています。資格取得のための勉強が役立ったことは否定しませんが、「私はFPである」と自己規定したことの方がより重要でした。ブラックジャックを思い出してください。専門技能であれば、公務員とか試験委員会が認定するしないは問題ではない世界があるのです。

日本FP協会は自民党代議士2名を抱きこみ、FP資格に国家のオーソライズ(権威づけ)が行われるように働きかけました。これは功を奏して、「ファイナンシャルプランニング技能士1級および2級」がスタート。金融庁では、各金融機関に与えている免許との整合化がうまくいかず、無理やりに「技能士」というカテゴリーを探し出してきたようです。技能士だから、労働省の管轄。すなわち、今なら舛添厚生労働大臣から認定証をもらうのです。これって私はなんか変な感じがする。

ちなみに日本FP協会は政治献金がばれてスキャンダルとなりました。協会理事が何人か辞任した。週刊誌にもおもしろおかしく書かれたことも。

日本FP協会はNPO法人ですが、自社ビルを建てるほど資本蓄積しています(!)。資格ビジネスを展開することがいかに儲かるか、ということを意味するので、多額を払ってFP資格を取得するよりもFP協会に資格ビジネスのやり方をベンチマークして自ら資格ビジネスを営んだ方ががっぽり儲かることでしょう。(主婦向けに「家庭料理初級・中級・上級」とか「アイロンがけ検定」とか、おじさん向けに「ビジネススーツ着こなし検定」や「ネクタイ結び検定」とか考えようかな。ギャ! 料理検定も家事検定も既に存在していました!)

ことほどさように、認定資格とは資格供与機関が儲けるために行っていると思ったほうがよいのでは。その仕事をやりたかったら認定資格を取る前にその仕事をやり始めましょう。その仕事をやりながら、必要があれば資格取得を検討してください。

その仕事を行う際に、資格をブランドとして活用する戦略なら、その資格が誰にどのように作用するのかを計ってから資格取得のための勉強を始めてほしい。私が名刺にCFPと印刷しても、「これは国際的に通用するFP資格で、ライフプランニング、金融商品運用設計、不動産運用設計、リスクと保険、タックスプランニング、相続事業承継の6分野の難しい試験に合格して得られたものです。」と解説しなければわかってもらえません。それはブランドとして価値が低いことを意味します。(ルイ=ヴィトンに解説は不要でしょ)

(しかし、タックスプランニングについてアドバイスすることは税理士法に触れ、相続のために遺言書を書いてあげると弁護士法に触れてしまう。ポートフォリオを提案すると、投資顧問業法上問題がある・・・。この国際資格って一体何なの!)

(「学校に行く目的(4)」に続く)

学校に行く目的(2)

学歴とはあいまいなものですが、限定的でより明確な
 3)資格を得る

という目的もあります。「誰かが」「所定の基準以上であると(qualify)」「認定した」もの。英語では qualification と言う。多くのビジネスはマーケットによって qualify されます。その「誰か」がどのように認定しようとマーケットが認めてくれなければ売上げは上がりません。

おそらく日本人は世界で一番資格好きな国民でしょう。その人を自分の基準で判断するよりも、「誰か」特に「お上」に判断を委ねようとする判断停止・思考停止のたまものです。アングロサクソンは資格よりも、「格付け」を好む。彼らが支配するグローバル金融の世界には格付け会社が重要な役割を果たす。サブプライムローン問題で格付け会社の限界が露呈しましたが、代替物もないので今後も格付けが重視されることでしょう。また、英国には多数の「ブックメーカー」がいて、大統領選の行方や中国五輪が開かれるかどうかなど何でも賭けの対象にします。日本人は思考停止ですが、英国人は思考ゲームを楽しむスタンス。お金を賭けると自然に真剣に考えることになります。

「資格」と言えばどれも同じように見えますが、そこには多様な種類があります。
 ・独占資格
 ・認定資格

医師免許とか弁護士資格は国家の認定する独占資格です。その資格を得て、その業務を行う場合は医師会や弁護士会の監督を受け、さらに国家監督官庁の監督も受ける。場合によっては国家が損害賠償請求も受ける場合がありますから、資格はかなり厳格に管理される。医療行為を行うためには医師にならなければならず、法律家になるためには司法試験に合格し、司法研修所を修了しなければなりません。ただ、医療現場や社会の現場には少数の医師や弁護士だけでは成り立たないので、その手前の資格として看護師、司法書士というような限定的な資格が設定されています。さらに、多少専門特化した歯科衛生士、臨床検査技師、放射線技師などや、弁理士、宅建士などの独占的な国家資格もあります。

業法に伴う資格があります。例えばガソリンスタンドには危険物取扱者(運輸省→国交省)が、薬局には薬剤師(厚生省→厚労省)、不動産屋さんには宅建士(国土省→国交省)が常駐しなければなりません。その商売をやるためにはその資格を取得することがどうしても必要なのです。

その仕事をやるために以上のような資格を取得することに何の文句もありません。

一方で「認定資格」というものがある。書道3級とかそろばん2級とかと同じ世界ですね。級とか段を持たずに書を書いてもかまわないし、そろばんをはじいても誰も文句を言いません。でも、履歴書に書道3段と書いたりするとちょっと尊重されます。「何かの世界を徹底的にやったことがある」と認めてもらえたり、「じゃあ、字がきれいなんだよね」と見なしてもらえたり。

(「学校に行く目的(3)」に続く)

学校に行く目的(1)

私はキャリアプランをじっくり作っていく講座を持っています。半年ごとに20名程度の受講生が参加し、10ヵ月後には大勢の人の前で自分の今後の生き方をプレゼンテーションして卒業です。会社の中ではなく、会社の外でそんなことを行う人は少ないと思います。とても意義あることと考えます。

この講座の途中で、学校に入学する受講生が時々登場します。学校といってもさまざまで、何かの技能を得るための学校や資格を取るための学校だったりします。「この講座に参加したもので、通うことにしました」と言う人も多い。そのくせ、その学校と講座実施日がバッティングしてサボり始めることもあって・・閉口することも。

学校に行く目的としては、まず、
 1)その内容を勉強する。

があります。勉強なんて自分ひとりでやれば良さそうなものですが、そう簡単ではないことが多い。学ぶ前には抽象的でとらえどころがないように思えるような科目、例えば語学、哲学、数学、理論科学、法律などを自学自習で会得するのは容易なことではありません。その世界特有の言語とか論理体系(これらをリテラシーと呼ぶ)のフレームを脳に新設する、それこそ「強いて勉める」ことをしなければならないのです。仕事を持った社会人が業務外で勉強する場合には、教室に拘束され、時間も拘束され、それ以外のことができないようにされなければやりとおせないことも多いことでしょう。

また、立場を同じくするクラスメートとの相互激励とか、孤独感をいやす安心感が勉強をやりとおすために役立つ。いつでも質問・疑問に対応してくれる先生の存在も重要で、松下村塾の吉田松陰や適塾の緒方洪庵のように人生の目標だったり、憧れだったり、その人に接するだけで素晴らしい価値をもたらしてくれます。もちろん、吉田松陰のように持ち味を発見してくれたり、人生の指針を示してくれたりする先生も。

ただ、ご存知のように、自分がそれを勉強する気がなければ時間空間的に拘束されようと素晴らしい先生がいようとダメですね。そんなモードになれば、類は友を呼び、さぼる仲間を(確実に)得てしまう。孤独感を癒やしてくれますが、相互激励の逆。学校に行くことが金と時間の無駄になってしまいます。

(「学校に行く目的(2)」に続く)

リスクマネジメントの原則

「危機管理」とは「リスクマネジメント」の訳語です。メディアが政府を批判する際に、「危機管理がなってない」と言います。何かが起きてしまってから批判するのは簡単なことで、非難を浴びている人に同情してしまうことが私には良くあります。

リスクは、既に見えているものと見えていないものがあります。例えば、私たちが自動車を運転する際に、
・ 歩行者をはねる可能性
・ 対向車とぶつかる可能性
・ 隣を走る車と接触する可能性
は、きっと見えているかと思います。

でも、
・ 踏んだアクセルが戻らなくなる可能性
・ 大型クレーンが倒れてくる可能性
・ 隣を走るダンプカーから積み荷が落ちてくる可能性
・ 隣を走るオートバイが目の前に転倒する可能性
などを意識しながら自動車に乗る人は少ないでしょう。

リスクマネジメントとは、

1) 起き得ることを可能な限り列挙
2) それらの発生確率を可能な限り推定
3) 発生した際の被害額を可能な限り推定
4) 発生しないようにするための対策を列挙
5) 列挙した対策へのコストを推定
6) 発生した後の対策を列挙
7) 列挙した対策へのコストを推定

を繰り返していくことです。

自動車に乗る場合のリスク(起こる可能性のある何か)については、1)のプロセスでは列挙が全く不足しています。もっともっとあります。是非、ご家庭の皆さん、職場の皆さんで話し合ってみていただきたいと思います。

1) から3)についてある程度作業したら、それを以下のチャートにプロットしていきます。

risk

① 発生確率は低いが、起きてしまうと損失が大きい
② 発生確率が高く、起きたときの損失が大きい
③ 発生確率が低く、起きたときの損失が小さい
④ 発生確率は高いが、起きたときの損失が小さい

という4つの部分に場合分けができます。
そりゃ確かに、厳密に発生確率や損失額を計算できれば良いのですが、起きてみなければわからないことも多いので、目分量で4つの部分に割り振ります。

例えば、家を持っている人にとって「地震」はどの部分になりますか?
一年間に家が地震で倒壊する確率は何パーセントもありません。発生確率は低い。ところが、倒壊してしまうと建て直さないといけないので、普通の個人にとっては損害推定額が大きくなります。ということは、①の部分にですね。

では、大型台風が通過中に川で泳ぐのはどうでしょうか? 泳ぎが達者な人でも一度水を飲み込んでしまうと溺れてしまいます。すなわち水難事故で死亡する確率は高い。死亡ということは損失(額?)は大きい。ということは②の部分でしょう。

飛んでいる鳥が糞を落としてお父さんの頭に当たる確率は低く、お父さんは頭を洗えばすみます。③の部分に当たります。

毎日炊事をしていて、鍋が噴きこぼれるということが良くあります。拭き取れば特に問題ありません。発生確率は高くても損失は小さいという④の部分に当たります。

このように区分けをした上で対処法を考えます。

①:自宅の地震倒壊については地震保険に加入したらどうでしょうか。
②:大型台風の時には泳ぐのをやめたらどうでしょうか。
③:飛んでいる鳥が糞を落とすことについては気にしなければ良いですね。
④:鍋が噴きこぼれることがないように煮炊きの際には気をつけたいですね。

という訳で、
① には「保険加入」
② は、「回避」
③ は、「受容」
④ は、「日々の作業」
というように対処します。

これは非常に基本的かつ重要な考え方です。何でもかんでも保険に入ろうとするのではなく、①のような「確率が低くて損害が大きい」と推定されるもの限定とするのです。

②のように確率が高いと保険料が非常に高くなってしまいますから、保険加入しない。できれば回避するのです。③の場合には保険に入ることもない。いつも空を見上げて歩く必要もない。日常作業そのものにも保険は入らないのです。

そのことに対して保険にはいるべきかどうかを悩むような時には、このように考え方で検討するのです。

損失額の大小は、「今の自分にとって受け容れられる程度(金額)」かどうかで判定します。

以上

夢をあきらめないで

私は実はフルート奏者になろうと中学生のときに志して音楽大学受験対策をしていました。何人もの先生にレッスンについたり、ピアノを習ったり、コーリューブンゲン、聴音(音を聴いて譜面に書く)、楽典などを勉強していました。東京芸大を卒業して、オーケストラのフルーティストになるのが夢でした。

でも、肝心のフルートがなかなか上手にならず、芸大のフルート科の定員が5名、受験者が80名という話を聞いて悩み狂いました。そして、高校3年の春に「夢をあきらめること」を決めました。

代わりに一流と言われる大学に入ったものの、それからの私は出口のない旅にさまようことになりました。フルートを棚上げして大学オーケストラ入団時にコントラバスに転向。強いて言えば公害問題に原体験があったので化学系に進んだのだけれど・・どれも「志望した」ものではなかったのです。

やっと何とかなったのは、夢現FP事務所を設立してから。「俺の人生これでいい!」って思えるようになったのです。それは37歳のこと。実に20年間はジャストミートの仕事をしていなかった。大学院に行っても、論文を書いても、就職して研究をやっても、ビジネスで海外出張するようになっても、何をやってもしっくりこない。不完全燃焼が続いていました。

40歳になり、夢をあきらめたが故に不完全燃焼の20年間を過ごしたことを思い知って愕然。夢をあきらめることは、とってもリスキーなことだったのです。フルーティストを目指して、うまく行かないでボロボロになることの方がむしろしっかりあきらめがついて新たな道を歩むことができたのかもしれない。ボロボロになることを避け、敵前逃亡しても「自分自身からの許可」がなかなか得られなかったのだから。

もう自分は人生をやり直すことはできない。でも、その20年の不完全燃焼期間も自分にとって必要な期間だと今は思えます。

そう思えるのは、夢をあきらめかけたある若きバリトン歌手に心の底から「やり切れ!」と言えたことだったかもしれません。彼は思い直して、大学院を修了し今はドイツに留学しています。そして、一昨年のクリスマスコンサートで競演させてもらえました。17歳の夢はあきらめたけど、音楽は捨てずに生きてきて、彼と競演できた幸せ。

是非、自分から逃げないでください。

逃げても逃げても、自分からの許可が得られません。きちんと夢を設定し、それに向かってベストを尽くし、きちんと落とし前をつけること。それは自分を大切にすることにつながるみたいです。

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